深川忠次の大望!

香蘭社の八代、深川栄左衛門の次男に生まれた忠次は明治27年に香蘭社から分離独立して、

深川製磁を創設した。

草創期は独自性を打ち出すために大変苦労されたのが垣間見られる。

彼は明治26年のアメリカ、シカゴにおけるコロンビア博には有田代表として渡航している。

この博覧会では工芸の絵画性というものが日本には求められた、職人の技術と絵画の持つ生成の融合が図れた

のである。

この大鉢は表向きは職人的な伝統模様の踏襲であり、見込みは写実的な鯉図が描かれている。

時代の要請にも柔軟に応えていく深川忠次のものつくりの姿勢には大いに学ばされるものが多い。

西洋の様式であるアールヌーボーやアールデコとの融合も見事に成功させ傑作が生みだされていった。

有田町の町長にも就任し、公共の為にも尽くした。

この大鉢の蜀江紋様は、明治33年、パリ万博に大花瓶一対を出品して金賞を受賞したが、その意匠に類似性が

見受けられる。