③明治伊万里復刻事業監修

現代に甦りさらなる進化に挑む、幻の名品──「明治伊万里」 独特の美しさで、多くのファンを虜にしてきた有田焼。その有田焼の歴史が、2016(平成28)年、発祥400年を迎えることをご存知でしたか? この節目のときを前に、幻の有田焼「明治伊万里」を復刻させようというプロジェクトが2007(平成17)年に立ち上げられました。彼らが最初に取り組んだのが、かつて世界の頂点を極めた「精磁会社」の名品の復刻です。 精緻極まる優美な作品の数々で欧米人たちを魅了し、鹿鳴館の饗宴をも彩りながらも、数少ない名品を後世に残し、伝統的な職人技術とともに、わずか十有余年で消滅してしまった「精磁会社」。一時は人々の記憶の中からも忘れ去られていた幻の逸品を現代に甦らせるのは、至難の業であったことは想像に難くありません。 しかし、高い志を掲げた陶工たちの手によって、数々の難題を克服し、「精磁会社」製品の復刻にとどまらず、さらなる進化と挑戦を続けています。 和と洋の意匠が織りなす優美さと筆致の精巧さで、他に類を見ない様式美を極めた「明治伊万里」 ー明治伊万里復刻の経緯ー 日本の誇りでもある伝統技術を後世に残すために─ 『幻の明治伊万里 [悲劇の精磁会社]』 imageimage 「明治伊万里」を復刻することになったきっかけは、『幻の明治伊万里 [悲劇の精磁会社]』の著者である蒲地孝典さんとのお付き合いでした。蒲地さんは、商社の社長をされながら古美術商として輸出明治伊万里の数々を里帰りさせてきた人なのですが、その彼が「この精磁会社の復刻を、川原忠次郎さんの縁戚になるお前のところでやってみないか」と、松本に声をかけてくださったのです。 5年前の有田の現状をあらためて見てみると、産地としての売り上げは、ピークだったバブルのころと比べたら4分の1ほどにも落ち込んでいて、窯もバタバタと廃業していました。これはつまり、産地に力がないということです。陶磁器の産地として続いていくだろうか、と不安に思いましたね。このままではどんどんフェードアウトしていって、この下りカーブでいったら、発祥400年を迎える2016年にはなくなってるんじゃないの?と、ブラックジョークを語るひとたちも有田の中でさえいたくらいです。このまま何もしなければ、幕末から明治にかけて、最高の技を持つ粋な職人集団が築き上げてきた「明治伊万里」の誇るべき伝統技術も、あっけなく消え失せてしまう、そんな恐怖感もありました。 大陸からやってきた様々なものを日本という小さな島国が受け止め、ここで練り上げて、いつしか自分たちのものにしてしまう巧みさ。これによって生まれたのが、数々の日本ならではの美であり独自の文化です。「明治伊万里」もまさしくその代表だと思うんです。グローバル化の波を受けて、陶磁器の一大産地としての生き残りは難しいとしても、歴史ある有田という産地の名を掲げながら、日本の誇りでもあるこの伝統技術はきちんと残すべきだ──そう話合ったんです。こうして「明治伊万里」の復刻を手がけることになりました。 精緻を極めた絵付技術の再現に挑む。製土は有田焼の原点・泉山にこだわる。 絵付け 伊万里の復刻。精緻を極めた「精磁会社」を復刻するうえで最も重要なのが、絵付です。 絵付については、佐賀県立有田窯業大学校で講師をされていた伝統工芸師の先生に指導をお願いしました。絵付でさらにキャリアアップ、特殊な勉強したい人間はいないかと社内外に広く募集をかけて、集まった10名ほどの絵付師さんに毎週一回、先生から直接指導をしていただきました。そうして2年かかってやっと完成したのが、鹿鳴館の饗宴を彩ったといわれる「色絵竹文ディナーセット」です。 絵付はまず、絵の具の溶き方から学びます。有田では絵の具を摺るというのですが、乳鉢に絵の具と膠を入れて時間をかけてすり潰していきます。絵の具に膠を同化させるわけですね。最初は絵の具の摺り方だけで、1時間半終わりますからね。絵の具って、摺るときの力加減一つで色味が変わるんですよ。昔は、絵付師として入っても、絵の具を摺ることだけに専任していた人がいたくらいですから、「あんた、赤ね」って言われたら、3年も4年もひたすら赤だけを作る。これが有田の職人への一歩ですよ。それくらい、絵付の技術は奥が深いんですよね。 ここで学んだある一人の女性は、絵付師5年目にして、有田で一番上手いかもしれないといわれるほどにまでなっています。まず、そういう人材がたくさん育つしかないな、と思い、今も、「明治伊万里絵付技術研究会」というのをつくって、絵付師さんに勉強して頂いています。本来なら、国や伝統技術保存会のようなところがやるべきことを、一企業がやっているわけですが、そういうことをやらない限り、新たな技術者というのは育たないですからね。 図柄は、まずはもともとあったものをそのまま復刻することが第一段階。そして、すでにある図柄を応用して、リデザインするのが第二段階。さらに、体得した技術と自分のセンスを融合させて、まったく新しいものを作る──最終的には、この第三段階にまで持っていきたいと考えています。 そして、もうひとつ大事なのが、陶土。製土は、「有田泉山の陶土」にこだわりました。泉山の土でつくる──これが伊万里・有田焼の原点ですからね。 泉山磁石場 泉山の陶石は単味で陶土になるように、非常に優れてはいるのですが、ものすごく扱いづらいんです。化学的にいうと硫化鉄が多く、鉄粉のようなものが浮き出て、色が黒ずみやすいんですよ。柿右衛門の「濁手(にごしで)」や、生地の余白をむらなく塗りつぶす「濃(だみ)」といった技法が生まれたのも、この土の性質のせいではないでしょうか。 この泉山の土が使われなくなって、かれこれ100年が経ちます。今では、有田焼も含め、肥前地区の焼き物のほとんどは、熊本の天草陶石を使って作られています。 技術というものは、ずっと継続していくことによって、伝承・蓄積されていくものだと思うんですよ。100年使わなかった技術をもう一度掘り起こしてやろうとしたら、100年かかるのが普通です。それをわずか数年でやろうとしているんだから、えらいいろいろ無理がある。それを承知のうえで、今の先端技術をうまく取り入れながら、あれこれと模索しているわけです。 たとえば、25センチの洋皿を泉山の磁土でフラットに作るというのは、ものすごい難題です。泉山の陶土は耐火度が低いから、すぐにへたるんですよ。ようするにリムが落ちたり、高台の中が尻餅をついたりと。大きい洋皿でよくやるように、支柱を使って焼けば簡単なのですが、職人として、それはやりたくないというのがあるのです。コンピュータでデータがとれるわけでもなく、これくらい落ちるだろうなっていうのを計算してあらかじめ膨らませておいて、あとは焼き上がってみないとわからない。それでも、「なにがなんでも泉山の土で真っ直ぐに作るんだ」という意気込みで、最高峰のものを目指しているのです。 原点に忠実に、先人たちの技術を再現し、現代に甦らせる「明治伊万里」。 このプロジェクトは当面、有田焼発祥400年となる2016(平成28)年まで、10年間の期間限定で活動しています。陶土屋さん、型屋さん、絵の具屋さんなどそれぞれの会社にもあれこれ無理をお願いしながら、ゆくりと進めています。その間に復刻製作する主な対象は、1882(明治15)年、「精磁会社」がみごとに完成させたわが国初の高級ディナーセットなど精磁会社設立に関与した名工たちの作品が出発点です。少しかっこよく言えば、「明治伊万里」の魂を具現した完成度の高い逸品を、時を超えて響きあうように現代の陶工たちが復刻します、ということでしょうか。この作品を一人でも多くの方に愉しんでもらいたいですね。 「明治伊万里」の定義とは? 様式とは? 名工が持てる技のすべてを尽くした幻の名品─「明治伊万里」 色絵捻割地紋唐草文鉢 有田焼は、絵文様や形式の上から大きく「古伊万里」「柿右衛門」「鍋島」に分類されます。「古伊万里」という名前はよく聞くと思いますが、これは主に江戸時代末期頃までに作られた有田焼のうち、「柿右衛門」様式と「鍋島」様式を除いたすべての焼き物を指す一般的な呼び名です。 そして、この古伊万里ブームの陰に隠れてあまり知られていないもう一つの有田焼が、西洋の骨董世界で珍重される「明治伊万里」なのです。 1853(嘉永6)年の黒船来航をきっかけに、出島以外にもぞくぞくと日本に外国人が乗り込んでくるようになりました。彼らは、数々の日本の優れた伝統工芸品に目をつけたわけですが、伊万里焼もその一つだったのです。そのうち、外国の商人から、「洋皿を作ってくれないか」「こんなものはできないか」といった、さまざまな依頼をされるようになる。すると、いわゆるプロデューサー的な立場の人間が登場してくるわけですよ。彼らの要望を聞いて、見本を持ってきて日本の陶工たちに作らせる、いわば豪商ですね。このあたりから、それまで作っていた和調のものから、一気に形も色も使う絵の具も変わっていくわけです。 色絵縁間取り唐草文スープ皿 やがて、1868(明治元)年の明治維新、1871(明治4)年の廃藩置県を経て、国中が文明開化にわく、日本近代の黎明期がやってきます。海外からの情報がどっと入ってきて、ものすごいスピードで日本が変わろうとしていく時代です。だから、とうぜんのように、江戸末期から明治にかけてというのは、日本の美術がものすごく修練していった時期だと思いますね。ことさら、世界で評価された工芸の世界ではそれがものすごいことになっていったんだと思うんです。 でもその一方で、廃藩置県によって鍋島藩は崩壊してしまう。藩によってそれまで手厚く庇護されていた陶工たちは、一転して明日をも知れぬ境遇に立たされてしまうわけです。 色絵赤濃蝶文コンポート でも、ここですごいのは、江戸文化の爛熟を身をもって体験してきた職人集団である彼らは、持てる技のすべてを尽くし、世界に打って出るものを作り出すことに全身全霊をかけるんですね。そんな彼らの手によって生み出された、疾走感とエネルギーに満ち溢れた作品の数々──これが「明治伊万里」なんです。もう窯がなくなった、あるいはそれまで締めつけられていたものがすべてなくなった、明日はどうなるかわからない、となったときに、今まで江戸絵画を勉強したり、歴史を勉強したりして、自分の中に溜め込んできたものを一気に吐き出す、その疾走感とエネルギー──それこそが「明治伊万里」の真骨頂だと思うのです。 色絵兜唐草連鎖文洋皿 ものすごい緻密な絵がぎっしり描き込んであったり、とてもじゃないけどこれは真似できないわ、と思ってしまうような作品がいっぱいあるんです。どんな無理難題を与えられても、「こんなことやったことないよ」じゃなくて、彼らはやるんですよ。そこに、エネルギーと疾走感を僕は感じるわけです。 それと、これでもかというくらいデカイのを作っているのも、「明治伊万里」の特徴です。中国に負けないぞ、という大物を作ってる。これは、それまでの江戸期にはなかったですね。それも、もう先がない!というギリギリまで追い詰められたなかでのチャレンジ精神だったのではないかと思います。 この「明治伊万里」が、当時ジャポニズムが人気を博していたヨーロッパでものすごくウケて、世界の大博覧会でも、他のどんな伝統工芸品よりも彼らを魅了してやまなかったわけです。 卓越した伝統技術と最先端の近代技術を融合させた「精磁会社」 精磁会社の刻印 鍋島藩の崩壊によって藩窯を失い、舵取りのいなくなった陶工たちは、その後どうしたか──。新たに集団を組んで一から始めるか、やめるかの二つに一つですよね。そこで、とにかく有田で一番優れた職人集団を集めろ、といって作られたのが「香蘭社」(1875(明治8)年~)という、日本で最初の会社的組織です。いくつかの窯焼きと商人が合体したわけです。 設立した翌年の1876(明治9)年には、米国建国100周年記念フィラデルフィア万国博覧会で大成功を収めた香蘭社でしたが、美術品や日用食器の製造販売に対する考え方の違いから、職人たちが2つに分裂してしまいます。こうして、香蘭社から分かれた有力な陶工たちによって、1879(明治12)年に設立されたのが「精磁会社」です。 「精」という字には「こころ」「たましい」という意味がありますが、その名のとおり、精妙で魂のこもった数々の名品を残しています。また、高級日用洋食器を開発したり、最新鋭のフランス式製陶機械を導入したりして、卓越した伝統技術と最先端の近代技術とを融合させたことも、「精磁会社」の素晴らしい功績といえるでしょう。 「精磁会社」の製品は、1883(明治16)年にはオランダ・アムステルダム万国博覧会で金賞を獲得しています。さらに、同年11月、当時の東京麹町山下町(現在の千代田区内幸町)にオープンした西洋社交クラブ「鹿鳴館」では、「精磁会社」の洋食器が夜毎の饗宴を彩り、海外からの貴人たちを驚嘆させました。 「精磁会社」の製品は、そのほとんどが輸出用につくられていました。ですから、国内では一般市場には出回らず、唯一の納品先といえば、浜離宮に隣接した迎賓館や宮内省延寮館くらいでした。今でも入手が非常に難しく、「幻の有田焼」と言われているのはそのためです。 しかし、この「精磁会社」は10数年という短い期間で名品を残しながら廃業してしまいます。世界不況が原因といわれていますが、プロ意識に高い職人たちの寄り合い所帯に無理があったのかもしれません。 ただやはり、残した製品は見事です。蒲池さんからいろいろな精磁会社製品を見せて頂きながら、どれもため息がでるほど素晴らしい出来でした。その出来映えに惚れたことから、復刻はスタートしたといってもいいかもしれません。これが今できるなら、有田の伝統技術も生き残れるんじゃないかと。 明治伊万里プロジェクトの今後の抱負 さらなる進化を遂げた「平成伊万里」の確立を目指して 制作中の作品:染付霊獣文クーラー 江戸末期から明治30年ごろにかけて、さまざまな陶工たちが七転八倒しながら生み出してきた「明治伊万里」。そのほとんどが海外に渡り、すべてを見ることができないなかで、限られたお手本から先人たちの技術を学び、復刻を続けています。しかし、これが最終ゴールとは思っていません。 そこをもう一つ超えて、さらにその先にある「平成伊万里」を生み出すこと──それができて初めて、やってきたことが意味を成すと思っています。そのためにも、新たな試みにも精力的にチャレンジしています。 酒クーラー その一つが、ワインクーラーならぬ「酒クーラー」の製作です。九州というと焼酎のイメージが強いですが、佐賀県は米どころでもあり、九州のなかでは日本酒も盛んに造られています。近年、アメリカでは日本酒ブームが起こっていて、シャンパン感覚で飲める発泡性の日本酒を造るメーカーも次々に出てきています。そんな時代性も踏まえ、地元の酒造メーカーとのコラボレーションで、「明治伊万里」の酒クーラーをアピールできたらおもしろいのではないかと思い、ニューヨークの紀伊国屋書店での展示会に出品します。 永遠に忘れてはならないものづくりの原点 新作 一方、原点を忘れてはいけない、という想いも強く持っています。 たとえば、土づくり。陶石を砕くとき、昔は「唐臼(からうす)」という道具を使っていました。一方に水槽、もう一方に杵頭を備えた天秤式の道具で、渓流から引き入れた水の力を使って、非常にゆっくりしたスピードで陶石を砕くのです。 今のスタンパー(粉砕機)で、水車と同じようなスピードで陶石を砕くことはできないものか、陶土屋さんに相談したところ、スタンパーの部品を変えればできるとのことだったので、さっそくお願いしました。 新作 唐臼を使っていたころの様子を古老に尋ねると、「陶石をゆっくりと砕くと、花粉(はなこ)が飛ぶんだよ」と言うんです。花粉とは、陶石を細かく砕いたときに出る微粒子で、それがフワーッとあたり一面に舞い上がる。そして、つき終わると、機械の周りについた花粉を刷毛で落として、土に混ぜるんだそうです。 そんな花粉が飛ぶくらいの、昔ながらの陶土で作ったらどうなるか──それがロマンだと思うんですよ。昔はさらに、陶土を10年、20年寝かせてから使っていたわけですから。ものづくりというのは、本来そういうスピードで伝承されるのかもしれませんが、世知辛い世の中、そうも言ってられません。でも、そんな精神はいつまでも忘れずにいたいと思っています。 *有田製窯株式会社 代表取締役 松本哲氏のブログより 今日は何度かブログでも紹介している、精磁会社復刻プロジェクトの完成披露記者発表を東京の日本外国人特派員協会(通称 外国人記者クラブ)で行いました。たくさん方に出席していただき、いい感じで無事終わる事ができました。今日は緊張してあまり上手くしゃべれなかったので以下に今日のスピーチの原稿を付けておきます。長いですが、よかったら読んでみて下さい。 今回このプロジェクトに取り組むきっかけは、『幻の明治伊万里-悲劇の精磁会社』の著者である蒲池孝典氏に、精磁会社の復刻を一緒のやらないかと声をかけていただいた事です。精磁会社の中心人物の一人である川原忠次郎は私のひいじいさんである松本静二の叔父であり、その静二が弥左エ門窯を復興し、当社の前進である有田物産合資会社を設立し現在に至ります。声をかけていただいた時に、私は精磁会社復刻に関わる事が出来る事に、運命と使命を感じ、また精磁会社製の作品のあまりにも精巧で優美な作りを見て、ぜひ復刻にチャレンジしたいと強く思いました 実際、復刻するにあたって考えたのは、原材料からこだわってやらないと本当の復刻にならないし微妙な質感が出ないと思い、陶土、釉薬は元々の有田焼の原料である有田の泉山陶石を使用する事にしました。実は、明治中期くらいから熊本の天草陶石に変わっていき現在の有田焼の陶土の原料はほぼ100%天草陶石になっています。一方、絵の具の方は逆に昔からある絵の具は発色は綺麗なのですが鉛が入っているので環境の事を配慮して食器の絵付けは無鉛絵の具を使用しようと思いました。 しかし、原材料からこだわって復刻するとなると、当社だけではとても出来るものでは無く、佐賀県窯技術センター、陶土屋さん、絵の具屋さん、型屋さん、伝統工芸氏の皆様方等様々な方々にこの復刻の意義に賛同していただき共同でプロジェクトを立ち上げて復刻に望む事となったのです。 まず、苦労したのは陶土です。陶土をなんとか使えるようになるまでに約1年くらいかかってしまいました。絵の具の方も無鉛絵の具であるため、なかなか当時の発色がでなかったりですとか、あまり絵の具を重ねすぎる(盛というのですが)とビリといってヒビが入ってしまったりとこちらも使いこなすまでに相当時間がかかっております。更に絵付け自体も相当な難度があり、伝統工芸氏の先生に週一回指導にきていただき練習を重ねる事によってようやく完成する事が出来ました。 有田窯業界はかつて精磁会社が目指した窯業技術の近代化を成し遂げ、その後高度成長期は隆盛を極めたわけですが、皮肉にもその事が手作業による熟練の技を徐々に廃れさせていく結果を生み、またその後の長期間の景気の低迷のため人員整理、廃業、熟練工の高齢化、新しい人材が確保出来ないなど苦しい状態が続き、今まさに練達の技術が失われようとしています。 このプロジェクトは単に精磁会社の作品を復刻させて販売 するというものではありません。復刻を通して今まさに消えつつある有田焼の本来の技術を再取得し、次世代に残さなければいけないという使命感でやっております。つけている価格を見てもらうとわかるとおりかなりの高額な値段になっておりますが、実際の作業時間から値段を算出するとこの金額になってしまうのです。当然そんなに売れる物とは思っていません。しかしながら、今我々がこのような物作りにチャレンジしない事には本当に有田焼は消滅してしまうのです。 私は我々日本人が日本人であるためには、日本の伝統産業の火を消したら駄目だと思っています。10年後には有田焼の歴史は400年を迎えます。次の100年も有田焼を残し伝えていくために、誇りある日本文化を次世代へ継承していくためにも、この復刻プロジェクトを大いに推進していきたいと考えております。この復刻プロジェクトの意義に一人でも多くの方に賛同していただき支援していただければと思います。   ◼️佐賀新聞 ■皿など10種類、産地活性化目指す     明治中期に作られた日本最古級の洋食器セットを復元するプロジェクトが西松浦郡有田町で進んでいる。同町の陶磁器メーカーが古陶磁研究家らの協力を受け、洋皿など10種類の食器を当時の作り方を忠実に再現し、年内に完成させる。欧米向けの優れた輸出品を生んだ技術に学び、長引く不況に悩む有田焼業界の活性化につなげたい考えだ。 復元品は、同町の香蘭社から分かれた窯元「精磁会社」(1879~1903年)が明治中期に製造した「色絵竹文ディナーセット」。シチュー鍋、丸皿、小鉢など十種類で構成され、同町の泉山産の陶土で焼成した生地に竹の葉やスズメを手描きで緻密(ちみつ)に表現したもの。日本初の本格的ディナーセットとして当時の宮内省に納めた記録があり、外国の要人を接待する鹿鳴館で使われたという。 明治10年代、欧米への輸出品は美術品が主流だったが、精磁会社はいち早く市場の変化を察知して高級食器を開発。その先進性、高度な技術に学ぼうと、有田町の古陶磁研究家の蒲地孝典さんが同町の陶磁器メーカー「有田製窯」(青木孝社長)の研究員西城鉄男さんらに復元を呼び掛けた。 昨年9月から「有田製窯」で製作を始めたが当時の文献が全く残っておらず、実物を観察しながら手探りで作業を続けている。陶土は現在使われる熊本・天草産ではなく、実物通り泉山産で挑戦。天草産より鉄分が多いため、成形しにくく焼成温度の調整に苦労。髪の毛ほどの細さの線描きも絵付け師を悩ませている。 絵付け師の森奈保美さんは「今までやってきた仕事で一番難しい。ただ色使い、デザインともに今の有田焼にない斬新さがある。明治期の名工に胸を借りるつもりで頑張りたい」と意気込む。 外部の伝統工芸士の絵付け指導の支援も受けており、さらなる協力者を募る。西城さんは「有田全体のプロジェクトにしたい。熟練の技を受け継ぐことが新しさを生み出し、産地活性化につながっていくはず」と話す。